L.M.ゴットシャルク(米-スペイン)
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Louis Moreau Gottschalk(1829-1869)

郷里でさまざまな音楽伝統に触れる。家族はクレオール人街に居住しており、祖母ビュレーBusle´と乳母サリーSallyはクレオールだった。父親は イギリス出身のユダヤ人と言われているが、ハーヴァード大学に学んだ商人だった。ゴットシャルクは幼児期からピアノを弾き始め、間もなくニューオーリンズの体制派によって神童と認められるに至った。 1840年に非公式デビューを果たす。それからわずか2年後にアメリカを離れて渡欧し、芸術上の野望を果たすうえで必要な専門教育を受けるべく、 パリ音楽院に入学を志願するが、拒否され、結局のところは知人を通して、音楽界の権威に接見する権利を得ただけだった。しかしこの間に行なった演奏会では、ショパンから「行く末はピアノの帝王」と呼ばれ、ベルリオーズにも注目された。1853年に帰国すると、翌1854年の長期間のキューバ入りを皮切りに、中南米の各地を遍歴した。1860年代にはヴィルトゥオーゾのピアニストとして名をなしたが、 1865年に、オークランドの女学生とスキャンダラスな情事を結んだと疑われ、アメリカを出国せざるを得なくなった。ゴットシャルクは再び南米に渡ることにし、同値で頻繁に演奏界を催した。このような演奏会のさなかに、1869年11月24日リオ・デ・ジャネイロで、虫垂炎の結果、虚脱状態に陥った。そうなるまでに多くの手が尽くされ、ゴットシャルクは自作の《死》を演奏したが、まさに次の曲目《トレモロ"Tremolo"》を演奏しようとした時に、発症したのだった。ゴットシャルクは容態を快復することのないまま、それから3週間後に客死した。ゴットシャルク自身に《国民楽派》というアイディアがあったかどうかは不明だが、中南米やカリブ海、南米のさまざまな民族音楽をベースに、独自のロマンティックな作品を作曲した。一方、いくつかのサロン・ピースでは、ショパンやシューマンの影響を受け、センチメンタルな曲調の作品を多く作曲した。またゴットシャルクは南部の出身者で、日常的にフランス語を使っていたにもかかわらず、過酷な南北戦争では北部支持の一人だったという。クオドリベットを用いたピアノ曲『連邦 Union』(1864年、 リンカーン大統領夫妻の前で初演)は、こうしたゴットシャルクの一面をよく物語っている。この曲はアメリカ国歌、アメリカ民謡の「ヤンキー・ドゥードゥル」(Yankee Doodle)と「ヘイル・コロンビア」(Heil Columbia)によるパラフレーズであり、クライマックスでは「ヤンキー〜」と「ヘイル〜」が同時進行する。
(執筆・著) 小坂”たれしゃん”智裕
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★代表的な曲
 ■■プエルト・リコの想い出
 ■■パスキナード(諧謔)

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