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| Mascagni, Pietro (1863〜1945) |
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1863年、ピエトロ・マスカーニはイタリア西岸の港町リヴォルノに、パン屋の息子として生まれた。父親は彼を法律家にしようとしたが、14歳の時に伯父の援助により、地元のケルビーニ音楽学校に入学した。彼はソッフレディーニからピアノと作曲を学ぶ。16歳の時に交響曲ハ短調を作曲、次いでケルビーニの記念のためのキリエを書いた。1881年の卒業の時、2幕の歌劇「紡績工場」を書いて賞金を獲得した。また、この頃シラーの「歓喜の歌」に作曲し、それがミラノのコンクールに入選した。そのことで、ラルデラル伯爵に認められ、ミラノ留学の夢がかなった。
1882年にミラノ音楽院に入学。そこで彼はポンキエッリやサラディーノに作曲を師事し、また同室には5年先輩のプッチーニがいた。しかし、彼は勉学に耐え切れず中退し、ミラノのダル・ヴェルメ・劇場の管弦楽団に加わり、チェロを演奏するようになる。また、歌劇団に加わりイタリア各地を巡業し、指揮者・作曲家としてのキャリアを積んでいった。1885年、彼の作曲した喜歌劇「ナポリの王様」が地方巡業で公開されたが、たいした成功を収めることはなかった。その後、チェリニョーラで結婚しその地に落ち着く。音楽教師や劇場の指揮者を務めながら、作曲を続けていった。
彼の偉大な成功は、やはり歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」であろう。これは、1888年に楽譜出版社ソンゾーニョ(Sonzogno)社の主催した一幕物の懸賞オペラに応募するために書かれた物で、ヴェリズモ作家のジョバンニ・ヴェルガの短編小説に基づいている。そして、1890年にローマで上演され、審査の結果1等賞に入選した。この作品によってマスカーニの名は世界中に知れ渡るようになった。 その後も彼はオペラを書きつづけ、1891年には「友人フリッツ」、1895年には「グリエルモ・ラトクリフ」を発表する。しかし、両者とも「カヴァレリア・ルスティカーナ」ほどの成功を収めることは出来ず、現在では両者とも間奏曲が取り上げられる程度である。1898年の「イリス」は日本を題材にした異国情緒あふれる作品であり、同じく日本舞台とするプッチーニの「蝶々夫人」の先を行く作品ではあるが、たいした成功を収めることもなかった。1901年には、イタリアの6都市にて「仮面」が同時初演された。しかし、マスカーニが指揮したローマを除けばみな失敗に終わり、ジェノバに至っては最後まで上演されなかった。現在では稀に序曲のみが取り上げられて演奏されることがある。また、弟子のボッタキアリがマンドリン用に編曲したものは、今でもよく演奏されている。
作曲家としてのみならず、指揮者としても活躍を続けていた。1902年には歌劇団を率いて渡米し、自作をアメリカの各都市で上演した。1911年には南米にも渡り、ブエノスアイレスのコロン劇場で歌劇「イザボー」を初演した。1929年にはトスカニーニの後を継いで、ミラノ・スカラ座の主席指揮者に就任。指揮者としての名声も獲得する。また、1895〜1905年には、ペーザロのロッシーニ音楽の院長を務めていた。マスカーニは新しい題材からの着想を捜し求め続け、1934年に彼の最後のオペラである「ネロ」を完成させ、スカラ座で初演された。これは当時のムッソリーニ政権をたたえる物であり、多くの音楽家から遠ざけられた。1940年には、「カヴァレリア・ルスティカーナ」初演50周年記念として、マスカーニ自身がスカラ座で指揮をし、その録音では現在でも残っている。第2次世界大戦後にはムッソリーニに加担した罪で財産を没収され、1945年にローマのホテルの一室で、ひっそりと息を引き取った。マスカーニは生涯オペラを書きつづけ、また歌曲や交響曲も残しているが、「カ
ヴァレリア・ルスティカーナ」ほどの成功を収めることはついに出来なかった。ただ、このオペラはイタリアのヴェリズモ・オペラの傑作とされていて、現在でも盛んに演奏されている。 |
| (執筆・著) おしゅん |
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- ★代表的な曲
- 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」
- 歌劇「友人フリッツ」(間奏曲)
- 歌劇「グリエルモ・ラトクリフ」(間奏曲)
- 歌劇「イリス」(序奏と太陽の賛歌)
歌劇「仮面」(序曲)
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